巡りあるき

うたひながら夜道を帰るからつぽのひだりの胸に風がはいつた

田井畑

f:id:miyasakihiro:20090228144548j:plain

 「田井の畑さんのバス停よう見てな、ふたつあるでな」と店のおばさん

 翁さび田井畑の坂ゆくひとのかすかに礼(いや)すよそびとわれに

             

f:id:miyasakihiro:20090228152326j:plain   

そんなこんなで、今年2月友人に誘われ神戸のセミナーに行くことにしました。

はじめての兵庫県です。せっかくの兵庫県なので、しばらくお蔵入りしていた石仏行脚をちょっぴり再開したい!と思い、セミナー会場近辺で、石仏のありそうな場所を地名を頼りに探しました。 

学生の頃から石仏が大好きで、生まれ育った村のまわりから石仏巡りをスタートしたものの、毎日の生活に追われ、気の向くまま…とは到底ゆかず、短時間で出かけられる、東京、群馬、埼玉等に限られ、西国のものは写真でしか見たことがありません。それでまず須磨。すぐにあの阪神淡路大震災を思いました。そして《田井畑厄神》。タイハタという地名に心惹かれ、《厄神》という名称?そんな名前の神社があるの!?と驚きながらも興味津々…あちこち欲張ることはやめて、半日をそこで過ごすことにしました。

神戸から須磨、須磨駅のホームからは海が見えました。

バスに乗り、田井畑厄神まで。正しくは田井畑厄除八幡宮ですが、地元では「厄神さん」と親しまれているようです。それにしても、《厄を払うため》に厄神さんにお参り?のっけから凄いところに行くことになっちゃったな~(^_^;)

〈田井畑厄除八幡宮

光仁天皇770年、都に疫病が広り、これを抑えるために畿内国境十箇所に厄神を祀って厄はらいを行わせた(続日本紀)とあり、畿内の摂津と畿外の播磨の国境である田井畑の厄神もその一つで、今でも社殿後方の高地をその遺跡だと伝えている。須磨は都から遠く離れた流刑の地でもあったらしい。毎年1月18日から20日まで3日間厄除祭で賑わうそうです。

多井畑厄除八幡宮の古地図

古地図

長くて急な階段をのぼり、本殿へ。お参りを済ませてよく見ると、本殿の脇にさらに険しい階段が上に延びている。のぼっていくと厄神祭塚とある。新しいお社があり、正面にヒト型を収める石造りの水盤が置かれている。ヒト型は主務所で申し込むようにと書いてあったので、もう一度下の社務所に降りて(ヤレヤレ)ヒト型を求め、取り除きたい厄を書き込み、息を吹きかけて水の中に深く鎮める。

田井畑厄神さんて、都という大きな村の道祖神だったのかな。疫病を外に追いやって封じ込め、以後入り込めないように堅く守りを固める…なんだか身につまされるなあ…。でも、そんなことして追い出しても、その場限りじゃないのかなあ…

新しいお社の奥には、柵でしっかり囲まれた小高い塚の上に古木が生えている。ぼんやりと、ここに疫病が封じ込められているのかな…と思ったりしながら《モリ》という言葉を思い出す。この塚は自然の山地ではなく、盛土して突き固められ、さらに周りには壕まで掘られていたという。ちょっとしたお城のような守り。

塚をおりると、社の北の方に木製の赤い小さな鳥居が見え、ゆったり開けている。田井畑厄神さんは裏側の景色のほうが懐かしい。この先に広がるのが播磨の国。

私の想像だが、古地図にもあるように、ここは六甲山地の大地のハナ(端)にあたる所で、ここから南側は平地、そして海。三叉路に挟まれた高台でしかも湧水が流れている。こんな地は古来より特別な場所とされる場合が多い。クニの境を守る神としてまつられる以前から、ここはこの地域の人々にとって大切な場所だったのではないでしょうか。境内からは、茂った木々に阻まれて瀬戸内海は見えませんでしたが、この後、田井畑の集落をめぐり、集落の上に広がる台地に出てみると、西の方に明石海峡がよく見えた。厄神さんのあの塚から、当時はきっとはるばる明石海峡を見おろすことができたのだろう。そしてその向こうが海の難所、播磨灘である。

厄神さんを後にして田井畑集落へ。田井畑の集落には、東国の村境でよく目にする馬頭観音や、道祖神は見当たりません。代わりに大小の宝篋印塔が置かれ、地域の人々が大切にお守りされているようでした。謡曲でうたわれる、在原行平ゆかりの村雨松風の石碑などもあり、記された歴史が今ここに存在するという、西国の抜き差しならないある種の息苦しさもちょっぴり…。帰りがけ、翁のような小柄なお爺さんが、私に会釈して下さり、軽やかに通り過ぎて行った。

ん!?田井畑の翁!!

なんかこれから、いいことあるかも~)^o^(

 

やぶ椿散りしく野道吾がゆけば小さき畑と紅白の梅

f:id:miyasakihiro:20090228150505j:plain