ここには以前来たことがある…気がする。
ふっと観光客の姿が途切れた。チャンス!
同行の二人を誘って太極拳!時間無いのでさわりだけ~
‘ちょうのはな’に立ち、十字手から起勢…
集中するのはむずかしいかなと思いましたが、以外にもすぐにしーんとできた。
(御嶽パワーかな^^;)
ゆっくり最後まで通してやりたかったけれど、手抱琵琶でやめる。
十字手しずかに寛げる細胞のひとつひとつの海が目覚める
森のなかヒタと風止む寄満(ここにはいつか来たことがある)
三庫理
あたふたと急ぎ足で幾つかの祈りの場を巡りながら
何度も記憶のスクロールをしている。
〈ここには以前、来た事がある。〉
二本の鍾乳石、うがまーい、ノロさんの座るあの薄暗いひんやりした場所、三角の閉じた空間、ホッコリ明るい祈りの場。
寄満(ゆういんち) 沖縄戦の爆撃跡の池
《ここには確かに来た事がある。》
その実感が何度も記憶の扉をたたく。
何度たたいてみたところで沖縄は確実に二回目。以前来たときは与論島の海で遊んだので、沖縄本島は飛行場と首里城しか行ってない。それでも、いつか来たことがあるという感じから抜け出せなかった。
帰りのタクシーの中でも、斎場御嶽と御所前の顔面把手付深鉢は何か似てるな~^^;
とおかしなことをずっと考えていた。背中の割れた蛙が土器を抱きかかえている構造の顔面把手付深鉢、土器口辺の顔は久高島を見守る月(太陽?)ノロさん?
まさに斎場御嶽…
御獄は自身が中に入ることができる、言ってみればあの顔面把手付深鉢の中にすっぽり入ってしまうようなもの…。かえるの背中を割って子どもが誕生するという事は蛙の死を意味する。だからあの土器は誕生=死というひとつのコトを表現している…
憶測が憶測を生んでまさしく神話もどき…。^^;
たった一度、しかも大急ぎで訪れただけなのに、私にとって御嶽はすんなりと身になじむ場所でした。でも、世界遺産の斎場御嶽には、さまざまなものが付随して威圧的な感じもしたので、もっと身近な、地域で大切にされている小さな御嶽を訪ねて、ゆっくりと風を感じてみたいな~と思いました。。
なにもないところこそカミの降りたまふ斎場御嶽に立つ神かなし
沖縄はお地蔵さんの代わりに愉快なシーサー(^O^)
散歩中の沖縄犬。狼に近いそうです