巡りあるき

うたひながら夜道を帰るからつぽのひだりの胸に風がはいつた

関係性の中から浮かび上がる「私」をうたう…

615日、≪短歌公開講座第3回「私」を歌う。≫が学士会館で開かれた。パネリストは馬場あき子、外塚喬、光森裕樹の三歌人。司会は佐伯裕子氏。馬場あき子氏と光森裕樹氏の歌が好きなので出席してみました。

 

それぞれ自薦の歌6首 を挙げ、それらの歌から受け取ったモノを語ることから始まった。司会の佐伯氏によれば<歌を読み解く事も歌人にとっては一つの表現>なのだそうだが、あらかじめ配られた資料は、光森氏のみ解説的資料が2枚添えられていて、ちょっと!?だった。

自薦の歌を読み上げる声の調子も、三人三様で興味深い。ひょっとしてこの読みあげる調子が、岡井さんの言う<調べ>に通じているのかなと思ったりした。馬場あき子氏はよく通る声で、ドスンと言葉を投げ込んでくる、外塚氏はふわふわと「どうでもいいんだけどね…」というような感じ。光森氏は淡々と素材に向かうという風で…。といった感じかな~^^;

 

馬場あき子選

 人として在るさびしさは終ひ湯に首までつかりゐるときにくる    外塚

 ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか      光森

 どんらんでとはうもなくて人間の不徳のわすれやすさ身につく    馬場

外塚 喬選

 くらげになって生きるのもよく目的はあるやうなないやうなただよひ 馬場

 まむかへばいづみにふれるここちして告げるすべてが嘘にならない  光森

 待つことの楽しき時間きのふ来て今日は来ぬ山雀今日は来る目白   外塚

光森裕樹選

 棄てかたと去りかたのみが吾をわれたらしむるもの夏鳥を追ふ    光森

 水底に春の気泡は生まるるにわれは耳なき挫折の女面        馬場

 づけづけと物言ふわれをさけてゐし男が捻子の切り方をきく     外塚

 

※添えられた光森氏の資料による「私」の歌い方

①私の視点で「私」を描く……………私は○○である。

                 馬場あき子・外塚喬・萩原裕幸・紀野恵

                 大口玲子・田村元・黒瀬珂瀾小島なお

②他者の視点で「私」を描く

  違和感な「私」、客観的な私……○○さんがこう言っている。

                 俵万智・松村正直・小島ゆかり・鯨井可奈子

                 佐伯裕子・山崎聡子・野口ゆかり・永田紅

③他者を描くことで「私」が浮かぶ…まわりとの境界線に「私」が現れる。

                 永井裕

 

③の歌い方として、永井氏の歌のみ11首をあげ、永井氏の歌が、短歌の新しいツール(どう歌うか)を示唆していると述べた。

  

 月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね  永井

 やさしい人やかわいい人と生きていく 家に着いたらニュースが見たい   永井

 マンションのひさしで雨をよけながらメールをかいている男の子      永井

  ・・・・・

*意見交換*

・馬場氏は、他者や自然を歌うことで自分を浮かび上がらせるという歌い方は、万葉の昔からすでにある事で、新しい事でもなんでもない、③に揚げられた永井氏の歌のどこが読む人のこころを打つのか…。又、この中から現代の百人一首を選ぶとしたらどれか、そしてこれらの歌が後世に残る可能性はあるのか、私はないと思う。とズバリ。

 

・対して光森氏は、選ぶとしたら<月を見つけて・・>かな、この2文字開けの所が。微妙な人間関係を表している。と返し、そもそも永井氏は自分の死んだ後も残ってほしいと思って作っていないと思う。俵万智以来、<どう歌うか>は何でもアリで、道具箱の中の道具(ツール)として見てしまう。道具に対する敬意が無いのかなとも思う。と語る。

永井氏の歌は共感というより、氏の短歌の幅を広げようとする試みに対する評価として挙げた。永井氏の歌に自身の歌に無いものを感じて提出したとも…。

 

・外塚氏は、永井氏の歌は面白いがせまってこない、一時的には面白いかもしれないが、受け入れられない。コップの中のさざ波を楽しんでいるんじゃないかと手厳しい。

 

ここで司会の佐伯氏が、若い人達には自分を強く出すことが、他の人の生きにくさを生んでしまうというデリケートな面がある。弱さとも思うが…。とフォロー。

 

・これに馬場氏は、「さわらないで済ますことがいたわりなのか」とざっくり。光森さんの歌の方がご自身の生き方を懸けていて、打つものがある、力強い。と言うと、外塚氏も光森さんの歌には共感するが、永井氏の歌には手触り感というかなあ…、何かが感じられない。と付け足す。更に馬場氏は、永井さんの歌は散文調。七七調なのかな?口語が定型になじんでない。寺山は七五調は厳格は守ることで読者に受け入れられた、と踏み込む。

 

・光森氏は、先人の築いたものにどう向かうか…、自分の中で整理できるところとできない所がある。道具として引き継ぐだけでは駄目なのかなあ…とも思う。そして、短歌の今のありようを大きく考えると滅入ってしまう。短歌人口は年々減っている。これに対してどうするのか、短歌界の仕組み等も含めて、若い世代を叩いて育ててほしいが、若くない方々にも考えて欲しい問題。と危機感を語る。

 

 

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昨年に続き二年目の公開講座だが、今回は面白かった。パネリストがお互いの質問を外さずに投げ返していて好感が持てた。

私は馬場あき子さんの歌は凄いなあと思うけど、たしかに、自分ではとてもあんなふうには歌えないと引いてしまう。外塚さんの歌はあまり知らないけど、光森さんの歌は、ある雑誌で立ち読みしていいなと思い、出版されたばかりの「鈴を生むひばり」を購入して読んだ。新鮮な言葉がキラキラして…中に柔らかなまなざし…か潜んでいるように思えた。

 

街灯の真下をひとつ過ぎるたび影は追ひつき影は追ひこす

ふゆあかねさす紫(アメ)水晶(シスト)ひとことをいへぬがためにわれら饒舌

ずぶぬれのコートを羽織るもし人に翼のあらばかく重たからむ

削ぐやうに雪を払へり信頼を得てしまひたるうしろめたさに

みなもより落葉(らくえふ)ひとつみなぞこへ落ちなほしゆくさまを見てゐつ

死してなほ遺れる友のウェブサイト潰す術なく如月弥生

たどりつく疲労のそこひ先のなき場所はいつでもさうだ、あかるい

                        光森裕樹「鈴を生むひばり」より

 

永井裕氏はこの講座の昨年のパネリストにいたような気がするが、こんなことが歌になるのかな~と思ったことは覚えている。今回挙げられた歌も面白くもなんともない…と思えばそう思えるし、あゝこういうこと、あるよな~と思えば「そうそう、そうだよね。」と思えるところもある。何と言っても「これなら私にもできるかも^^;」と思えるところがいい!

 

軽い調子で詠んでいるから軽い歌だとも言えないし…。外塚氏のように「受け入れられない!」ことも無いし…。だって素人だし…なんでもアリだもの~

ひょっとして、永井氏の短歌に〈詠う〉という文字は似合わないのかも…?

永井氏の、散文調で一見、あたりさわりのなさそうな歌は、メールの話し言葉に近いような気がする。ある情景をスッと送り、見た人がまたスッと返せるような「うた」。ということはもしかして短冊に書いて送りあったというかつての「うた」本来のありように近い…と云えなくもない?

 

馬場氏はしきりに、ネット上でやり取りしている短歌の動向が気になるようで、これから先どんな力になって行くか、期待と懸念の入り混じった関心の強さが窺がえた。やはり、短歌人口の減少は気がかりなのだろう、ネット上でもなんでも、短歌をもっと多くの人に親しんでもらいたい気持ちは、人一倍強いのかも知れません。

 

でも、ツイッターで≪どんらんでとはうもなくて・・≫とか≪人として在るさびしさは・・≫なーんて軽々しくフォローやリツイートできないし…。踏み込んで痛い目に合うのはまっぴらだし…やはり、踏み込まない関係性なのかなぁ…。

 

そういう意味では、永井氏の短歌は光森さんの提示されたように、時代に合致した<歌い方>といえるのかも知れないな~。ただ、何となく好きじゃないのは、永井氏の目線に違和感を感じてしまうからかもしれない…。年代ですよね~

 

あ、これって②の自分の描き方かも~いや、③かな~^^;