ひめゆり平和祈念資料館は≪御嶽≫の新しい姿かも知れない…
沖縄から帰って一か月後の今日、一昨日は旧暦弥生18日夜の月。赤い月でした。
3月19日朝
小雨はパラついていたが、浜に下りてみた。
雲が切れて朝日が見えた。朝日は久高島の少し右に上がった。
潮が寄せて来る。
浜に降りる途中にあった祠、千木が載っている。
“ひめゆり”かな…
ひめゆりたちが学徒動員された沖縄陸軍第三外科病棟のガマ
資料館入り口脇に咲いていた花。
ひめゆりの塔に献花して、少し奥まった資料館にむかう。
館は静かに中庭をかこんでいる。
実物に語らせる。美談にはしない。という意志に共感。
入ってすぐ目に飛び込んできたのは、あの軽便鉄道。ネットで見た『アニメひめゆり』の始まりの場面でコーラスと一緒にゆっくり動いていた。
眼鏡をかけてゆっくりパネル展示を読み進む。
―やはり戦争はいつの間にか始まっていたんだ…。
櫛や手鏡、筆箱、水筒…、生徒さんが使っていた当時の小道具を見る。
―「ああ、女子高生…。」と自分のその頃を思う。
映像コーナー
少しだけ見るつもりで、席に着かずに見た証言者の映像…に引き込まれた。
「手榴弾を持ってなかったから助かった。」
「ここに残って生き残るのか、ここから出て行って生き残るのか」
「運が良かったとか悪かったとかじゃない、生き残ったのは運が良かったんじゃない。たまたまだ。」という証言を聞いた時、涙があふれた。私も、先に逝った癌友に時々こう話しかけている。
「残してきた人たちに、すまない。」・・・
重い体験を抱えたまま、60年~70年を生き抜いて来られた方々が語る言葉は、沖縄戦の惨状を語りつつ、お一人お一人の生き方をも見事に私たちに伝えてくださっているように思える。言葉がズシン・ズシンと届く。
「伝えよう!」という意志こそ≪いのち≫そのものかもしれない…。
あるいは、やむを得ずそこに残った人達は、戦後を生きた証言者のなかにいのちそのものとしてずっと生きつづけていた…とも言える。
「鎮魂」の部屋。
亡くなった方々と見つめ合い、その声を聞く。奥にガマが見える。ふと、前日のサキタリ洞を思いだす。
―同じかもしれない…。
いのちからいのちへ
はじまりのふるへがいまもこの身にもふるへつづけてゐるのだらうか
第六展示室では
証言者個人の体験を一話ずつ絵画にしたものをパネル展示していた。
やはり絵は、証言者から直接お話を聞く、あるいは証言者が文字にしたものを読む、映像作品としてまとめられたものを見る、ということと少し違う…。
絵のなかにスーッと入って行ける。そして、画面のなかを自分の意志で行きつ戻りつすることができる。勿論そこには絵の作者の暗黙の≪意≫が働いているのかもしれないが…。ろうそくの揺らぎにしばらく目を凝らしたり、全体の様子を見直したり…、映画や証言者のお話しではそれはできない。
私たちは、絵の作者が証言者から受け取ったモノ(いのち)を、作者の(いのち)を通して受け取っている…のかもしれない。
パネル展示のほかに、証言者と表現者が少しの違和感も妥協せず、何度も歩み寄り、啓発し合って一枚の絵にしてゆく過程がケースのなかに展示されていた。米兵の足の大きさや藪の表現など、少しの違いで生みだされるニュアンスの違いが絵画ならではなのかもしれないが、素早くひかれた鉛筆の線に、証言者と表現者の息づかいを感じた。
…この絵一枚一枚が、一コマ一コマだったら…
午年の今年、久高島のイザイホーはやはり、行われる気配はないようだけど、私はこのひめゆり平和祈念資料館が、今を生きる≪御嶽≫の新しい姿のような気がしました。