那智の火祭り―熊野⑻
おーーーーつ 神よばふ声を轟かせ祓ひの火の矢つぎつぎ疾る
大松明の入場 八咫烏を先頭に神主の入場
7月14日、那智の滝までの国道はガラガラで車が全く走っていません。「おかしいねー人はあまり行かないのかなー」とかのんびり構えていたら大違い!到着してみれば駐車場は満車、那智の滝の前は身動きもできないほどの超満員でした。
それでも、偶然後ろに立った地元の方の解説つきで、那智の滝の火祭り(扇祭り)を初めから終わりまで堪能しました。後ろの人は若い頃、松明をかついで走ったことがあるそうで、「あれは重いし熱いしで、普通ではやれないことだ。」と、誇らしく話していました。
まず、一、二、三の矢。これは旅に出た熊野の権現様への使いの矢なのだそうです。白装束の若者が「オーーーーッ」と低く力強い声を轟かせながら、間をおいて三組走ります。八咫烏が点火した細長い松明を、前で合わせて矢の形にし、二人一組で奔ります。
結びのたいまつは、八咫烏が石段下の結界の前で振り回し、祈りの所作をします。この時ほかの神官が周りを囲み、低い姿勢で身構えます。たいまつの火が危険だから…かな、そうとも思えないけど…。
一、二、三の使いの矢の使者が帰り、報告?する所作(アイヌの男性の祈りの所作に似ている)の後、いよいよ大松明の出番です。
じっと見守る八咫烏
滝前の階段を駆け上ります
燃へさかる炎つらなり蠢きてさながら龍の昇るかと見ゆ
水かける火の粉払ひの加勢受けさかるたいまつなほ振りかざす
大松明は重さ約50㎏で十二基、担ぎ手は、腰にしっかり巻いた晒の帯で支えるようにして担ぎます。少し動くだけでも大松明の炎は伸びて、走ると二メートルにも三メートルにもなります。滝前の空気が騒ぐのでしょうか、風もないのに炎が大きく揺らぎます。まるで炎が大きな呼吸をしているようです。滝前の暗い階段を大松明が次々昇ってゆくと龍が昇ってゆくようで見事です。
白装束の担ぎ手は、火の粉を払ったり、落ちた燃えかけに水をかけて消したりする供を何人か従えていて、後ろの人が、「あんなんじゃだめ、もっと気をつけて見てやらないと火傷になる。」と気を揉んでいます。
大松明は階段の途中で扇神輿と出会い、誘うように一回、二回、三回、とぐるぐる回って階段を登り降りしながら扇神輿を導きます。
三回目になると大松明も火勢はやや弱まり、見物の人々が思い思いの願いを込めて松明に触れようとします、担ぎ手もそれとなく見物人に近寄り、手が届くようにしてくれます。
大松明が退場してようやく扇神輿のお出ましです。
生まれたての赤子のやうな扇神ふるふるきらきらあでやかに顕つ
蛇の着物を着た三人の若者に担がれ、時々若者たちが神輿をゆすって喜び?を表します。扇神輿は階段を下りて順番にヤタガラスにチェックされています。これは扇褒め神事と言って、チェックではなく誉め讃えているのだそうですが、チェックしているようにも見えます。
問答の後,八咫烏が結びの松明の柄で、神輿の第八番鏡をたたくと入場を許され、滝前に整列します。この後、田刈式や舞が奉納され、火祭りは終了。
扇褒め神事
那瀑舞の終了
燃へさかる炎とあそびよみがへる和(にぎ)しみたまよ那智の御神
ここにも気になる石がありました。階段を降りきった右、四本の竹としめ縄で結界された中にほぼ丸い石があり、しめ縄を被っています。
この石の前でヤタガラスの神官が、結びの松明を振ったり、扇誉め神事の前、祈ったりしていました。祭りの後この石に近づいてよく見ると「光が峰遥拝」と書いてあります。光が峰とは何処のことを指しているのだろう。なぜこの石の前でヤタガラスが所作をするのだろう、分からない事ばかりますます増えてゆく…。
それでも、ここに来てはっきり<火は水を、水は火をこそ触発す。>を目の当たりにしました。祭りの事の次第には、それぞれ「いはれ」があり、意味もあるのでしょうが、どうどうと天から落ち続ける那智の大滝に対して、燃え盛る大松明十二基、そして大松明を担ぎ、まつろう人々の熱気と集中。すべて納得の出来事でした。
使いの矢が出発して扇神を出迎えるまで、那智の大滝の存在は、意識の中ですっかり消え、祭りが終わった後何やらほっとして、安堵感とともによみがえるいっそう勢いを増した大滝!そしてヤタガラスの不思議な存在感…。
この祭りの後の満たされた感じは、優れた作品と向き合った後と同じ。マリーナ・アブラムヴィッチの「顔」を見終わったあと、等伯の松林図の前に立ちつくす時、薬師寺の日光・月光菩薩を間近に拝し時を忘れたとき…。
ざわわっと大きく心を揺さぶられたあとの、緩やかに導かれる着地点…。
動⇔静 陰⇔陽 厳⇔優 冷⇔熱 磐⇔海 水⇔火 はるか杳い⇔今ここ 生⇔死…
対立し、反発すること(モノ)こそ最も強く引き合うのでしょうか?
対立するもの同士は同じものとしてはあり得ない、でも、同じコトとしてはあり得るかもしれない…一方が無ければもう一方もあり得ないのだから。
再びなぜ?と問いかけてみました、
が、ことばは見つからずお手上げ状態。
おぼろげに浮かんだのが <対称性>
だから…?
う~~ん、わからない。
自然の中で生き抜いて来た、人間の精神世界に深く根ざすもの…と姫田氏は示唆されていますが、わからない事がますます増え、火⇔水の納得はいよいよ深まるばかり。
でも、たぶん…それが《ありよう》に繋がる…のではないかと、とりあえずの結論。結局振出しに戻り、なぜ?が浮かんでは消え浮かんでは消え…^^;
このなぜ?にひっかかる言葉が現代思想VOL42-7にありました。中沢新一氏による“ムスビ”の神についての論考。
・・・物質世界を三次元とし、霊的世界を四次元と言ってみると、マレビトやムスビはその二つをつなぎ結び合わせる存在として、三と四の間の分数次元を持っていることになる。つまり、マレビトもムスビもフラクタル構造をした神であり・・フラクタル構造をした境界性の概念を表現する神を根本に立てなければならない・・・
この、分数次元というのが、数学苦手の私にはよくわからないが、三次元と四次元が通分できたらおもしろいな~とふと思いました。
尾鷲の天倉山で狐に化かされ?たり、神内神社で不思議な優しさ奥深さを体感したり…、熊野には、三次元と四次元が通分?されたような場所がそこここにあった。
私たちの身体の様々な酵素やたんぱく質の生成は、外からの何らかの刺激でON-OFFのスイッチが入って始まるそうですが、モノゴトの《ありよう》が、自然の中で生き抜いて来た人間の精神世界に深く根ざすもの…であるとすれば、火が強すぎる時、水が強すぎる時、おのずと対立するものを希求するスイッチがどこかでON-OFFする…と考えられなくもない…かな。(2014/05)
祭りの後、扇神輿が那智大社に帰る途中の道で、神輿の写真を撮ろうと道の脇で待ち構えていたら、神輿を担いでいる若衆に那瀑舞に使った鎌をいただいた。今も自宅に飾ってあります。
扇神輿の解体。これも大切な祭りの次第のようです。
はろばろと太平洋に真向かいて真はだかに座す月はすぐそこ
吾と月とつなぐやさしく光るみちこれが旅立つ日にわたる道
いつの間にか8回を数えた「熊野巡りあるき」、ここでひとまずの完。熊野にはこの後も3回ほど通いました。また折を見てアップしたいと思います。
青岸渡寺の杖を持った仙人みたいな仏?さん