象潟は「奥の細道」のフロンティア
薄日さす合歓の象潟はるかなる対馬海流ここにつきたり
昨年、思いがけずみぞれ舞う芦野で、降りしきる雪の遊行柳に出会い、今年は縁あって象潟。象潟は満開の合歓の花(*^。^*)
驚いたのは樹齢千年を超すという蚶満寺の椨の木。
小高い塚の上で、どうどうと枝をひろげている。
蚶満寺稲荷社
亜熱帯植物の椨にとって、象潟はかなり厳しいはずなのに…
やはり対馬海流にのってやって来たのかな、寺には雪椿の古木もあるし…。
昨年、東尋坊の雄島で島を覆うタブの大樹に驚きましたが、雄島よりさらに北の象潟で、再び椨の大樹に出会うとは!
雄島 白山神社
そうそう、芦野にも椿の木。
芦野 那須温泉神社
田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉
雄島と象潟と(花の窟も)、遠くはなれているのに、なぜか響き合うものがある。ま、よくある神社…かも知れないけど^^;
象潟は、松尾芭蕉が奥の細道行脚で、ルートから一足伸ばした最北の地(目的地だったという説もある)西行の歌枕を訪ねて…という事のようですが、その西行さんにしても“景色が良い”だけでよくここまで足を運んだと思う。
何か用 にゃんだにゃんだ
どなた! なんでもにゃ~よ
のずら積みの土塁。ここに夜泣き椿 観音様がぎっしり奉納されていました
木登り地蔵 熊野っぽいな^_^;
蚶満寺舟つき場跡
すぐ脇に舟つなぎ石、少し離れて西行の桜、猿丸太夫姿見の井戸がある。他に親鸞聖人腰掛の石、神宮皇后袖掛の石、芭蕉の句碑、時頼公の躑躅等々賑やかです。
芭蕉さんが訪れた後も、菅江真澄、小林一茶、田山花袋、正岡子規、斉藤茂吉、ナウマンさん…、お話しだけの方も含めて、いろんな人がここに来ているんですね~
猿丸太夫姿見の井戸 左官屋が作った地蔵(芭蕉?)
-南に鳥海、天をさゝえ、 其陰うつりて江にあり。 西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、 秋田にかよふ道遙かに、・・・
おもかげ松島にかよひて、又異(ことなり)。 松島は笑ふが如(ごとく)、象潟(きさがた)はうらむがごとし。
象潟や雨に西施がねぶの花
ということで私も芭蕉さんにあやかって四苦八苦~
合歓の咲く寺でいつとき雨宿り
しがらみは舟つなぎ石に置きてたつ
カヤの穂の穂波ゆき交ふ鉄漿(おはぐろ)トンボ
象潟や奥の細道尽きて海
合歓の咲く道で現在地をさがす
せんねんの椨(たぶ)冠ります稲荷社の夜泣き椿は夜な夜なよばふ
素敵な畑!
丸石!? 鳥海御玉=「鬼玉」鉄かな?
「象潟の図」
旅衣ぬれてはここに象潟の海士の苫屋に笠やどりせん 菅江真澄
-行きかう人は、アツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫ってつくった短い衣を着て、小さい蝦夷刀《まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという》をこしにつけ、火うち袋をそえていた。釣する漁師は、たぬの《手布である》に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに舟を漕ぎめぐっていた。-天明四年(1784)「秋田のかりね」
松島や 雄島塩釜 見つつ来て ここに哀れを 象潟の浦 親鸞
鳥海山と象潟は切っても切れない…というより、象潟は鳥海山そのもの…
鳥海山の大崩落で島々が生まれ、同じマグマによる地震で1804年、潟は隆起して陸地となった。
火の山は海風を受け止め、溢れるばかりの水をもたらし、豊かな潟を育んだ。そして、黒潮と、西風に乗ってやって来た舟や人々を潟に呼び寄せ、休ませ、ふたたび旅へと向かわせた。
蚶満寺には、神功皇后が三韓征伐の途上シケに遭ってこの地に流れ着き、皇子(後の応神天皇)を出産したという伝承が残されている。その話と関係あるかどうかわからないけれど、象潟近辺には韃靼人が何度も漂着していたことが記録に残されている。
647 大化 3 この年、越国に渟足柵、翌年に磐舟柵が設置される
658 斉明 4 安倍比羅夫が船団を引き連れて齶田と渟代に到着する
660 斉明 6 比羅夫は肅慎人と接触して交易を望む
733 天平 5 出羽柵を秋田高清水岡に移転する
大化からのほぼ100年間にも、これだけの動きが北東北にあったんですね~。これを知ってから、芭蕉の合歓の俳句にも、はるかなおもむきが一味加わりました。
安倍比羅夫の船団は北東北にとっての黒船だったのでしょうか。
その地で既に暮らしを立てている先住の人と、後から渡来した人々がどう折り合って暮らしてゆくのか。あるいは定住している人と、移動しながら生計を立てている人との交流、交感、そしてせめぎ合い…。
21世紀の今も、家族のような小さな集団から、職場、地域、国と国のレベル(グローバル!)まで、スケールの違いこそあれ、人の群れで繰り返されてきた軋轢はけっして少なくなってはいない。
しかし目を凝らしてみれば、そのせめぎ合いと交感の中からこそ、新しい価値や文化は生み出されて来たとも言える。そしてそれがまた、新たな人や物を引き寄せ、ダイナミックな循環につながっていった…と考えたい。蚶満寺の神功皇后伝説は、そんなことを今に伝えてくれているのではないでしょうか。
北陸から東北にかけての、先住者と後から来た者とのせめぎ合いの歴史は、各地に残る城柵の跡がそれを物語っている。両者の交流は、初期の頃はセイムセイムが多少なりともあったにせよ、朝廷がクニの形を整えていくに従い、大きい方が武力で言い分を押し通すことが当然となり、城柵は少しずつ北上していった。
でも、
-「東北は勝たなかったけれど、負けもしなかった」赤坂憲雄-
城柵の跡 奥の細道のルート
柵は今現在も打ちこまれ続けている。
先住者はジュゴンや数えきれない生き物たち。
海は沖縄に住む人間たちだけのものでもない
草も木も魚も貝も蟹も蝶も舟虫も、すべての今を生きる生き物は人間と同じ進化の頂点にいる。かれら先住者すべてに、何の挨拶も何の相談も無しに勝手に柵を打ちこんで良いと、神様は言わない。
けれど神様は悪いとも言わない。
じっと見ている。
忘れてならないのは、ヒトも他のすべての生き物も、食べものの入れ子になって繋がっているということ。ただ、ヒトだけが食べ物として“食われる”ことがほとんどなくなり、自分たちの死を忘れ、そして生き物として生きていることも忘れてしまったのだ。
私は人間。どう考えてみても 柵のこちら側
辺野古の海の生き物たちは少しずつ、あるいはある日突然、身の回りから食べる物が消えてやせ細り、移動もかなわず死んでしまう…のだ。
それはきっと、
少し先の 私たち人間という生き物の姿です。
埋もれし牡蠣群れの上(へ)の重なりし泥漿(どろ)の厚さが気になつてゐる