巡りあるき

うたひながら夜道を帰るからつぽのひだりの胸に風がはいつた

鎌倉初冬 “Being There” -数学と禅-

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臨済宗大本山建長寺で森田真生氏と玄侑宗久氏の真剣問答に立ち会ってきました。

数学も禅も文字通りの門外漢。

分数を分数で割る?!なんじゃそれ―!

以来、数学は敬して近寄らず。

計算というのは手続きで意味なんか考えちゃいけないモノ…ですよね。

少し前、生物学者の清水博氏が、「生命を捉えなおす」という本のなかで、「…以上のことを数式で表すとこういうことです。」と、何ページかに渡って書かれた文章の内容を、見たことも無い記号を使ったいくつかの式で示されていました。その時「ふーん、この式にはこういう意味があるのか…」と、数学の“式”というモノに初めて興味を覚えました。(わかる事とは別です~^^;)

 …ですが

思い切って参加申込み。当たるはずないのに、何故か抽選に当たり…!いそいそと出かける事になりました。

 冬至直前、清々しく掃き清められた建長寺に立てるしあはせ。 

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玄 道場破り?(笑)

  ●「being hear」でなく、「being there」とはいかに。

    -京にても京なつかしきほととぎす- 芭蕉

森 “日本人としての数学の根本は情緒である” 岡潔

   →数学は問題を解くためにあるのではなく、情緒を深め浄める行為。

    -ほろほろと山吹散るか滝の音-   芭蕉

    -あら滝や満山の若葉皆振るる-   漱石

    情-エモーション 緒-糸口

  ★岡潔にならい、新しい数学の世界を作りたい。

玄 早いですね。ことば(笑)

  意識と実相。世界は見えたままではない、意識が捏造している。

森 岡潔は農業や念仏修行で境地に入り、境地に入ることで今まで見えなかったもの

  が見えるようになり、数学の発見につながった。

 ●数学とは客観的なあり方を探るものか

森 <数>の存在をあらゆる方法で証明しようとしたができなかった。

玄 <事実>と<できごと>

   *芭蕉と仏頂禅師。

    仏-今日(こんにち)はいかに  芭-雨過ぎて蒼苔潤う。

    仏-蒼苔潤う以前の仏法いかに 芭-かわずとびこむ水の音

    で、古池や蛙飛び込む水の音    他にも    

      静けさや岩にしみいる蝉のこえ

      五月雨をあつめてはやし最上川

      よくみれば薺花咲く垣根かな

森 岡潔芭蕉の句をよく引いている。

      春雨や蓬をのばす草の道  芭蕉

      春雨や物語りゆく蓑と笠  蕪村

・・・

森 計算軽視のギリシャ数学→計算重視のインド・アラビア数学→概念数学→無内容

  の記号操作数学→ヒルベルトによる数学不可能性の証明(数学の危機?)

玄 そこに情緒ですか…。

 ●数学は救わなきゃいけないモノ?

森 …。バスケが好きで中学時代、古武術の甲野さんの指導でインターハイに勝ち進

  んだ経験がある。<自分が消え、流れそのものになれ!>というコーチのもとで

  育った。

  「先ず記号ありき」から「あるものはありのまま有り、記号はそのシルシに過ぎ

   ない。」へ。

玄 日本の身(ミ)はタマシイが込み

     体(カラダ)はタマシイが抜けた状態。

     わたしを溶かす。

  <わたし>はいのち全体じゃない⇒身にそわない。

               瞑想=身につかせる

   頑張ると涼しくならない。

   -本来の面目-道元

    「春は花、夏不如帰秋紅葉、冬雪冴えて涼しかりけり」

   真剣の戦いはシュミレーションでは勝てない。

   無心に直観力で立ち向うしかない。

   ●直観をどうとらえるか。

森 …マシマティックス(数学)←マテーマタ=テイク(掴む・知っていたことを知

   りなおす)

玄 宗教と一緒ですね。

  目にみえるもの(色・ルーパ)は実相ではない。実相はいのち、

  これを掴むのが、禅。

  ●“私”のあり方で変化する世界は数学の世界じゃないのではないか。

   岡潔さんは数学も“私”を含んだものとして考えた?

森 岡潔は「数学は本来そうだった。」と言っている。

 ●being thereに計算はどう寄与できるか 

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森 かつて<計算>は、神の領域のモノとして畏れられ<数える>ということさえ大

   変な技術だった。

  ★世界の網の目には因も果も無い。世界の一部を切り取ると即、そこに因果が生

  じる。

玄 一得一斎 一斎即一 

   お釈迦様のお悟りは縁起。変化し続けているものに直観で立ち向うのが仏教。

  →善悪の判断の奥に判断する側の欲望がある。悪は自分の方をこそ、疑わねばな

   らない。

    「花を弄(ろう)すれば香り衣に満つ」「水を掬(きく)すれば月は手中にあり」

   ★好感をもって見たり聞いたりすることでしか本質は掴めない。

森 のこるのは喜び

玄 今直観の生かしようが無いくらい予定と計画が多すぎる。もうちょっと行き当た

  りばったりでいきたい。

  ★“なつかしさ”は重大。

   あの世=生まれる前にも居た混沌としたなつかしい“あそこ”→beeing there 

森 自然は膨大な計算を瞬時にやっている…とも言える。

   ★今日のこの場に浮かび上がった “とろみ”のようなもの…。

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メモ出来たものしか記せていませんが、かみ合ってる?と思えたお二人の問答は、メモを見直してみると、通底している部分の多いことに驚かされました。お話しのほんの一部です

計算というのは脳のクセなのかな、それとも世界のありようなのかな…?

絶妙なタイミングで発せられる玄侑氏の問…。

交互に返される「…なるほど」

7~8年前、巡り合わせで、古武術の甲野氏と玄侑氏が技で対峙する場面に立ち会うことがあり、なかなか技のかからない甲野氏がふっと笑った?ように見えた瞬間、玄侑氏がよろめいた!(様に見えた。)森田氏がその甲野さんのお弟子さんと知ってビックリ!

終って今、チラとしか拝見していない建長寺の宗務総長さんのニコニコ顔が浮かび上がり、数学の式はなぜ“シキ”と云うのだろう…とつぶやいています。

*思いつくままに…。

  ●シキ=式・識・色・敷……。卒業式 成人式 式次第・・

  ●広島県豊松の神石神楽神舞の段。猿田彦が茣蓙を手に持ち「ゴザシキ…」と歌

   いながら茣蓙を敷く舞を延々と舞い、ようやく敷いたその茣蓙の上で神官はひ

   れ伏して神の声を聞く。

    f:id:miyasakihiro:20111015192228j:plain神石神楽、茣蓙の舞

  ●和舟の舟底に使われている中心の太い柱をシキという。

  ●佐渡金山の人夫一人分の座をシキという