巡りあるき

うたひながら夜道を帰るからつぽのひだりの胸に風がはいつた

分ける 分け入る 割る わかった!

 

  手を出せぬ私を見てゐるわたくしがいま鉄橋をわたりはじめた  ひろ

 

「記憶の蔵」で物理のお話を聞いてきました。

前々回だったかな…講師の江本伸悟氏はお話のなかで「渦(うず)としての生命観」という事を示唆されました。伺ってすぐ、様々なことが連想され、う~んなるほど、面白い捉え方だなあと思いました。

  茂木健一郎氏によれば、数年前に「もう物理は純文学なんだよな」(池上高志)な…(?_?)そうですが…、路地に分け入り、階段をのぼり、スロープを下った闇の先に光の渦がふわっと息づいていました。

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中世のキリスト神学=神の言葉(精神)によって分ける世界から、身体によって分け入る世界(自分の体験から得たデータで世界を見る)へと変化したと云う美術史的なお話しは、ある程度理解はありましたが、物理の世界からの切り口は多次元的でクリアでした。

 今回,「ガリレオにしろフックにしろ船乗りたちにしろ、自ら創りだした観測機器が新しい世界の発見につながった。」というお話が印象に残りました。

 これをこうしたら!どうなるか!?の連鎖かな?

 これは文句なく楽しい!!

  …話しは飛びますが

癌手術後、再発の不安を忘れるため、これと決めた〈癌を抑えるのに良い〉と言われる事を、ワクワクしながら?試していたあの頃…を思い出します^^; (実際は、ワクワク試していて、再発している暇がなかった?…のかも)

 

で今、しばらくぶりに絵を描くとき、描き始めるまで何かと、描けない理由を引っ張り出してグズグズする私は、新しい世界なんか見たくない…座布団に乗っかってまったりしていたい私…

ですよね~ヽ(^^)

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4年前、民族文化映像研究所の「木曽さわら木工芸」上映後のフリートークで、教員時代、子ども達に〝木を割る”事を意識して体験させた事を話しました。すると、所長の姫田忠義氏は「それってどういうことなんでしょうね。」と問いかけてきました。

 私は「えっ、どういう事って…」と、しばらく絶句。

「子供たちに剪定枝や杉板、ベニヤ板やラワン材等々とにかくいろんな木材を割ってみることをやらせました。」「だから、それってどういうこと?」と…。私はぼそぼそと「割ればどんな木が割れるのか、割れない木はどれか、割れ易い木はどれかが分かる…それに…。」とつぶやいた。

すると姫田氏は「それなんです。分かった!というのはそういうことです!」と仰った。「そうか!そうですね!今それが、今、分かった!」と叫んでしまいました。