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巡りあるき

うたひながら夜道を帰るからつぽのひだりの胸に風がはいつた

『寂しさの歌』と『座布団』

劇作家の平田オリザ氏は、ポリタスというサイトの「三つの寂しさと向き合う」という一文の中で、金子光晴の「寂しさの歌」を取り上げながら、私たちが今、踏みとどまって受け入れなければならない“3つの寂しさ”について示唆されています。

金子光晴の「寂しさの歌」の中に次のような一節があります。

 遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。

 君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

 寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、

 母や妻をふりすててまで出発したのだ。

 かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、

 風にそよぐ民くさになって。

 誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。

 ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、

 腕白のようによろこびさわいで出ていった。

 ・・・

そしてこの長い詩は、以下のような一節で終わります。

 僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、

 この零落の方向とは反対に、

 ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがっきとつきとめようとして、世界と

 いっしょに歩いているたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、その

 ことだ。そのことだけなのだ。

          ―金子光晴『寂しさの歌』、『落下傘・1948年・日本未来派発行所刊』より

さて、私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。             

                ―ポリタス2015年8月16日「三つの寂しさと向き合う」より

氏の挙げられた“三つの寂しさ”はすでに、職場で、あるいは毎日の暮らしの中に、都会で地方都市で農山漁村で、私たちはとうに実感している、できれば受け入れたくない事実…ではないかと思います。(すでに受け止め、歩き出している人は沢山います。)

 

金子光晴「寂しさの歌」のしらべには聞き覚えがありました。

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転居するたび、一番身近な書棚に置いてあった本です。

定価500円、茨木のり子編、岡鹿之助装画。

開いてみると、87ページ「寂しさの歌」。(鉛筆で※マーク)

僕、僕がいま・・の一節は98ページで、ほんとうに長い詩です。

 

隣りに少し新しい山之口貘の詩集がありました。

定価800円、金子光晴

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やはり※マークのついている作品

「座布団」

 土の上には床がある

 床の上には畳がある

 畳の上にあるのが座布団でその上にあるのが楽という

 楽の上にはなんにもないのであろうか

 どうぞおしきなさいとすすめられて

 楽に座ったさびしさよ

 土の世界をはるかにみおろしているように

 住み慣れぬ世界がさびしいよ

        山之口貘詩集―金子光晴編より

 

貘さんの「さびしさ」と光晴さんの「寂しさ」は、同じなのだろうか、それとも別のものなのだろうか…。

 

       さくさくと決められたコース粛々と歩むも叫ぶもその柵の中

  さくさくと決められたコース粛々と歩かされてもうたは歌へる    ひろ